「札幌市ラーメン店味の会」発足
「みそラーメン」を「さっぽろラーメン」と言われるまでにしたのは「熊さん」の店主大熊勝信の尽力によるところが大きい。1964年(昭和39年)秋、高島屋東京店・大阪店で「北海道物産展」にて「みそラーメン」一本で実演販売。それが評判を生み、全国主要都市のデパートで展開。その努力で全国に知られることとなる。そのようにして味噌ラーメンをわずか3年で札幌の名物として定着させたのだ。
「味の三平」とデパートの北海道物産展で札幌の名物となった「さっぽろラーメン」だが、同時に「どこでも旨い味噌ラーメンが食べられる」と観光客が気軽に入店して失望するケースが頻繁に起きていた。また、札幌市内のみならず、東京都、全国で本場とは異なった「さっぽろラーメン」の模倣店が増え、客を落胆させていた。
そこで本場の味を守るために、1975年(昭和50年)、信用のおける専門店を選出し「札幌市ラーメン店味の会」を発足した。目的は「札幌の味の向上と技術開発、健全な営業と会員相互の親睦を図る」こと、正会員の資格は「市内で10年以上ラーメン店を専業し、役員会において審議の結果、適当と認められた店主」であること、と定めた。初年度の役員は会長に故 松田勘七氏(龍鳳)、副会長に故 大宮守人氏(味の三平)、副会長兼会計に故 大橋芳雄氏(八屋)、幹事長に故 大熊勝信氏(熊さん)。
当時発足した店舗は「熊さん」「八屋」「七福」「味の三平」「華平」「富公」「芳蘭」「龍鳳」「糸末」「龍本」など18店舗。因みに現在は「味の三平」「華平」「芳蘭」が営業している。
ラーメン評論家 野坂群司氏は、加盟店のうち最も忘れられない店として「富公」をあげている。
店主は故 菅原富雄氏。父親と営んでいた靴店の閉店が決まった時、常連だった「味の三平」の大宮店主に頼み込み、2カ月間修業。1966年(昭和35年)12月、中央区南1条西2丁目仲通りに開店。立地と味の確かさに口コミが加わり、瞬く間に行列の絶えない店になる。当時で一日平均350食、多い日には500~600食提供。さらにパフォーマンスとも思える麺あげのアミ玉を釜に叩きつける音と大きな怒号が名物となり、怒られなければ「富公」の客ではないという神話まで生まれた。それでも客は夢中で食し、満足して店を出たという。
現在は同規模のラーメン店なら7~80食出ると十二分と言われる状況からすると、「富公」の人気がいかに熱狂的だったことがうかがえるだろう。
純連(すみれ)の誕生
東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)8月2日、ラーメン店を開業した人がいる。店主は村中明子氏。店名は誰もが知る「純連」。今や全国に知れ渡る名店である。
開店当時、屋号は「純連」と書いて「すみれ」と読ませていた。この屋号は姓名判断をする人に決めてもらったそうで「若い人がたくさん集まる」という意味がある。「純連」を「すみれ」と読むか「じゅんれん」と読むか、ラーメン通でもそうでなくとも一度は気になる話だが、村中明子氏の長男、教愛(のりよし)氏の店が「じゅんれん」で、三男の伸宜(のぶよし)氏の店が「すみれ」、が俗論だ。しかしこれは実は正確ではない。
実際は、開業時ののれんには、漢字「純連」と書き、その上に「すみれ」とふりがなを振ってあったのだが、雨風にさらされ、ふりがなの「すみれ」が薄くなってしまった。その結果、客が漢字のまま「じゅんれん」と読むようになってしまい、1983年(昭和58年)中央区中島公園そばに移転した際に、敢えて客が読むまま「純連(じゅんれん)」とした。この名前を長男が継ぎ、1987年(昭和62年)南区澄川に開店、その翌年、三男が本来の読み方を貰って「すみれ」を誕生させる。なお、「すみれ」の開業地は明子氏が「純連(すみれ)」を誕生させた中の島の地である。その経緯からもわかることだが「純連」と「すみれ」は別会社だ。
1994年(平成6年)オープンの「新横浜ラーメン博物館」で「すみれ」が出店。このようにしてまた新たな札幌ラーメン店が全国区に知れ渡ることとなる。
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