札幌のラーメンのルーツは1923年(大正12年)、北海道大学前(現・札幌市北区北9条西4丁目)にあった中華料理専門店「竹家」とされる説が多いが、それはあくまで中華料理のラーメンであり、現在の「札幌ラーメン」とは違うものだったと思われる。
1946年(昭和21年)暮れ、中央区南2条東1丁目創成川のほとり、カネ正旅館前に一つの屋台が現れる。店主は故・松田勘七氏。「龍鳳」の先代である。スープは豚骨を長時間煮出したもの。麺は自家製で、手ぶみの手動式製麺機を使い、カン水は当時入手困難だったため重曹を使用。味は、日本人の舌に親しみやすかった醤油味。夕方4時からの店は、食物に乏しい時代ゆえ大盛況。早々に売り切れる日々が続いた。
翌1947年(昭和22年)には、故・西山仙治氏が、狸小路2丁目、金市館(狸小路2丁目にあった元ラルズの場所)前に屋台の「だるま軒」を出し、2年後、1949年(昭和24年)、二条市場内(南3条東1丁目)に店舗をオープン。2020年現在も営業中である。西山仙治氏は製麺技術に長けていて、当時30店ほどになっていた屋台の麺の注文を一手に引き受けており、松田勘七氏も自家製麺から西山氏の麺に切り換えたほどで、屋台のなかでも一番多く仕入れていた。
屋台街の前身となった当時の「龍鳳」の店舗
1948年(昭和23年)、札幌劇場(元須貝ビル)前に屋台街ができ、松田氏の「龍鳳」のほかにもラーメン店があったという。1951年(昭和26年)になると元東宝公楽会館横8店入るマーケット風の建物ができ、くだもの屋、菓子屋、寿司屋などが入り、「来々軒」というラーメン店もあった。後に、菓子店の後に松田氏の「龍鳳」が移り、隣に「さぬき屋」、半年ほど遅れて「天津軒」も加わり、全8店中7店をラーメン店が占めた。
当時大賑わいをみせた「公楽名店街」の風景
この頃から週刊誌などでも取り上げられるようになり各店は繁盛し「公楽ラーメン名店街」と称されるようになった。7店とは北から「龍鳳」「さぬき屋」「芳蘭」「来々軒」「天津軒」「満州屋」「蓬来軒」で、1969年(昭和44年)、冬季札幌オリンピック(1972年)のための道路拡張工事で取り壊されるまで大いに賑わうこととなった。
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